akshota0407の日記

自分自身が書きたいことや伝えたいことを書くブログです。

新しい価値観に出会う冒険に行きませんか?

私たちは視覚からの情報は大きく、旅行は新たな価値観を生み出す存在であると思います。しかし、 緊急事態宣言が解除されましたが、なかなか自由にどこかへ行くことは難しい状況は続いています。そんな中でも、新しい価値観に出会うことは、どこか旅行へ行かなくても出会うことは出来るだろうし、今の状況に文句を言っても、何も変わりません。そこで、今回はそんな冒険が出来る本を1冊紹介したいと思います。

その本は、「うしろめたさの人類学(著者: 松村 圭一郎)」という本です。この本を私が知ったきっかけは、駿台予備校のホームページに期間限定公開されていた、駿台予備校の英語科講師大島先生の映像授業で紹介してくれたのがきっかけでした。この本を読んでいく中で、自分自身が「日本という国に属しているから、当たり前として受け入れ、そのことにより便利または不便さを生み出していること」に気付かされた本でした。私自身の視野の狭さを自覚させられた本であり、この本に出会えたことで、もっとさまざまなジャンルの本を読みたいと思えるようになりました。

まずは著者の紹介をしておくと、筆者は岡山大学文学部の准教授であり、専門は文化人類学です。この本では、最初は日常の現象から導入であるため、初心者でも内容が入りやすい書き方であり、その後に日本とエチオピアを比較しながら文化人類学の観点で書かれています。一方で、専門的な難しい内容は少なめなので、文化人類学を専門で学んでいる人が専門書として読むのには向いていないかもしれません。

さてここからは具体的な内容について紹介をしておきたいと思います。第1章では「商品と贈り物を分けるもの」について書かれていました。そこには、同じ商品でも贈り物には、誰かにあげたりするときにラッピングをして渡したり、相手が欲しそうなものを類推して渡し、そこには相手を思う気持ちが含まれていることを実感しました。その結果として、相手からもらった物に対して重みを感じることもあれば、嬉しい気持ちにさせるのであって、経済における商品の役割にはない側面があることを知りました。このように書くと、当たり前のことすぎて、生活をしているときには気づくことが出来ません。他にも、第3章では「友達と親しくなるのは関係と行為のどちらが先であるか?」という内容では、プライベートの話をしたり、連絡を取り合うことが多いことから、その友達と親しいと感じるのであり、行為が先なのではという見方には共感することが出来ました。このようなことから、自分の考え方の奥行きをもたらしてくれたり、新しい価値観を得ることが出来た本でした。

さらに、自分自身が固定概念に縛られていることに気付かされました。そのように感じたのは「エチオペアに住んでいる人には戸籍(名前)がない」ということでした。日本で考えたら、当たり前のように戸籍(名前)があり、戸籍(名前)がないことで不便さしかないと感じます。しかし、エチオペア人が他国に移住をするときには、ビザの取りやすい名前にしたり、その国にいそうな名前に変えることで柔軟に対応することが出来ます。このように考えていくと、私は日常を良い悪いと判断もせずに、そういう物だから当たり前のように受け入れて生きていました。つまりそこから言えるのは、自分で無意識に決めたワクの中でしか物事を考えていないということです。だからこそ、自分自身が見えなかった世界が見えるようになるために、新しい価値観に出会うことは重要であると、実感させられました。

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学

 

10年後に出会っていれば...

アルバイトも辞めて、大学の卒業式も終わった自分は、大学生活最後の時間をAmazon primeで映画を見たり、部屋の片づけをしたり、読書をしたりと自分の好きなように、時間を過ごしている。一方で、自分の性格上、時間があると、何か考えごとをする。そんな自分が、もしこの人と10年後に出会っていれば、違った経験をしていたのではないのかと考えたので、その内容について今回は書いてみようと思います。

私が10年後に出会いたかった相手は、バイト先で出会った後輩のAさんです。Aさんは、現在大学2年生で、仕事に対しても真面目で、忙しい中でも、いつも先回りして、準備をしてくれて助けられたりと気の利く後輩でした。仕事面だけでなく、いろいろと話を親身に聞いたくれたりや話かけてくれたりと、仲間を思いやる気持ちもあって、人間性にも魅力がありました。さらに、容姿も魅力的でした。総括すると、今までこんなにいい人と出会えるとも思っていなかったし、これから先にこれ以上の人に出会えないかもしれないと思うぐらいの人でした。そんなAさんとは連絡先やSNSを交換はしましたが、長く続かないのは目に見えているし、そう思えれば思うほど10年後に出会っていればと考えるようになりました。

なぜ、長く続かないと思ったかというと、1番の理由は「生活サイクルが大学生と社会人が違うから」だと思います。社会人になれば、いつでも会えるわけではない。さらに、自分は入社してからしばらくの間は、仕事で結果を出して、早く出世して校舎長や本部に行って大きな仕事をしたい。そうなると、さらに時間は限られていくことになるから、会うことも難しくなるだろう。さらに、私の偏見かもしれないけど、大学生までの恋愛で2歳差は大きく、社会人になれば2歳差は許容範囲であることも多く、少し抵抗があるように思います。つまり、仮に大学生と社会人が付き合うことには限界はあるし、思い通りにいかずに相手を苦しめると思うから、これ以上の関係性をもつことを辞めることにしました。その一方で、もし10年後にAさんと出会っていたら、Aさんも社会人で仕事も落ち着いて、自分も仕事だけでなく、将来のことも考えなければいけない時期にもなり、その時に出会っていたらと思ってしまう自分がいました。

このようなことを考えていくうちに、人との出会いは偶然の巡り合わせであると言われますが、それに加えて、いつその人と出会うかは、自分自身でどうすることも出来ないけど、大切であることを実感した出来事でした。

所属が与えるものとは?

私たちは、学校のクラス・サークル・職場などに所属しており、そこから多くの人と出会っている。しかし、その所属には期限が設けられていることが多い。例えば、大学ならば4年間という期限がある。期限が満了すれば、定期的に会う人は僅かな人数なのは事実である。しかし、所属が与えてくれているものが当たり前すぎて、所属をしているときには気づかないことが多い。このように考えていくと、所属は人との会う目的を与えてくれているものとも言えるのではないだろうか。

さて前置きはこのくらいにして、ここからはこのような経験について書いてみようと思う。実際に所属ということが大切だと私自身が感じたのは、アルバイト先を辞めて、ある後輩と連絡をしていたときであった。その後輩とは、勤務日が被っていたことも多くあり、他愛もない話をしたり、就活の相談とかもしてくれたりした。アルバイトを辞めた後もESを添削して欲しいということで、LINEを通してやり取りをしていた。そんな後輩が先日、第1希望の会社に内定をもらい、就活を終えることを報告してくれた。自分にとっても嬉しいことだったけど、その一方で、お互いの共通項が減り、関係性を持続する必要性も薄くなったことを実感した。ちなみに彼とは、内定祝いにご飯を食べにいく約束をしたが、それが最後に会わなくなる可能性もあるのではないかと思うと、心の中は寂しい気持ちになった。そこから、所属が与えるものは大きいことを実感したのであった。

さらに、異性の場合ならば、会う目的の重要度はさらに増すことになるだろう。男女が2人で会うことの抵抗は少なからず誰にでもあるだろうし、誘う方も相手のことを考えれば、誘わない方がいいかもという心理をもつこともあるだろう。そうなると、1年後や5年後にその人に直接会って、今の心境を聞いたり世間話をすることは難しいのかもしれない。一方で、「今はSNSが発展しているから、そこから得られる」と言われるかもしれないが、そこには文字化された情報と直接得る表情や情報には大きな違いが私にはあると思う。このように考えると、所属から離れた関係には、お互いが納得する多少の目的がなければ会わないだろうし、持続することは難しいのではないだろうか。